自分なりの終活をして、想いを家族に遺したい

生まれ育ち、老い、死にいく

 私が40才の時、 父が73才で亡くなった。父は1年前から肺癌で闘病中であり、摘出手術で肺全体に癌が広がっていました。ある程度覚悟はしていましたが、その後の喪失感はこれまで経験したことのないものでした。「俺は絶対死なない」と途方もないことを言っていたことを、当時は何て愚かなことを言うのだろうと、聞き流していましたが、死と向きあうことに、耐えられなかったのだろうかと、今振り返って考えます。父が亡くなると死亡証明書や葬儀の準備などが慌ただしく進み、あの人この人と、入れ替わりやって来て、もろもろの手続きや支払いなどをしなければなりません。悲しみにひたる時間もないのが今の日本の葬儀の現状だと分かりました。葬送の儀式は当たり前のように、慣例に皆従っていきます。「いったい誰のための葬送なのか」分かっていても、つい問いたくなりました。本人の気持ちより、残された家族の思いで進行していきます。伊丹十三監督の映画「お葬式」は、この矛盾点をコミカルに描いています。そもそもこれらの矛盾点は、「葬式仏教」と言われることからきています。 日本独特に形成されたと言われています。この姿は本来の仏教ではないのは、分かっていても、納得がいきません。人生の最後の見送りが、こんな本人や家族の想いとかけ離れているなんて、、、過去の日本の歴史をみれば、政治と宗教が不可分に互いに利用し、また対立し、政治から遠ざけられただけでなく、檀家制度などで政治に利用され、精神生活からも遠ざけられた歴史がありました。それが今だに続いています。日本人にとって宗教、とりわけ仏教の再生が求められます。しかし、ここでそんなことを言っても、太刀打ちできないので、せめて葬送のあり方だけは、自分らしいやり方を選べるようになれたらと考えます。ずいぶん前から思っていましたが、なかなか実現できないでいました。ほとんどの人(私も含めて)には、死は遠い話であり、できるなら考えたくないことであるかもしれません。死を考えることは、あたかも死を呼び寄せてるように感じてしまうことがあるのかもしれません。しかしながら、古今東西死を免れた人は存在しません。分かっていても、身近に感じることは難しいことです。どの宗教も、いかに死と立ち向かうのか明確にしています。残念ながらこの日本では不幸な歴史ゆえ、死を遠ざけてきました。科学的な見地から死の解明も進められていますが、最後は一人ひとりが立ち向かうしかありません73

そんなことを考えていた時に、新聞告知欄に福岡市で「自分らしい葬送を考える」講演があると見て、講演会に伺いました。最後の人生だけは、自分で決められる、それこそ人間らしさであると大変感銘を受けました。今、ようやく「終活」ということが言われるようになりました。

 しかし、新型コロナウイルスの感染拡大で、私たちの生活は一変しました。当たり前ように接していた生活、人とのつながりも大きく変わってきました。葬送のあり方も、非接触・短時間で終わり、死者への見送り仕方も変化しました。このような時代になった時こそ、一人ひとりの人生の終わり方を大切に、その人らしい葬送のあり方、家族や親しい人にきちんと人生と気持ちを伝える支援を進めたいと思います。

 2015年国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」で示された国際目標である「誰一人取り残さない」 (leave no one behind)社会をつくりたいと思います。人とのつながり、当たり前のように存在する家族やまわりの人とのきずなをつくることの大切さを再確認する必要があります。そして人と人とのきずなを断ち切る差別や貧困をなくすことが重要だと考えます。私たち一人ひとりが自分らしい葬送を考えてみませんか。